ヨガの精神安定と瞑想について

ヨガの精神安定法

ヨガの中で最後の頼みの綱となるものが瞑想です。しかし、心身が非常に落ち着きなく、アンバランスな状態にあるかぎり、瞑想を正しく行なうことはできません。したがって、最初のうちは瞑想は勧められません。心身が安定するようになって、初めて瞑想を実践できるようになるのです。
ヨガにおいて瞑想は、感情を真に安定させ人格を統合するための必須の行法と考えられています。有益な結果を得るためにはリラックスして行なうことが大切です。最初は、習慣的なイメージ形成を止めてみることです。

バロウ博士のアプローチ

コネチカット州ウェストポートにあるリフィン協会のT・バロウ博士は、逸脱行動(非行、アルコール依存、売春など、社会的規範や価値を著しく踏み越えたり反したりする行動)について研究し、独自の仮説を立てていますが、その研究を通じて導き出された結論は、興味深いことに前記のヨガの考え方と同じようなものでした。
フロイトとユングの初期の直弟子であったバロウ博士は、精神科医としてはパイオニアともいうべきグループに属し、アメリカに精神分析学を紹介した人として知られています。しかし彼は精神病の研究を進めていくうち、「人間の社会的相互関係を決定する根本的な因子」は個々の人間にあるのではなく、生物分類上の門としての人類そのものにあるのだということに気づきました。ヒトという種そのものを調査し修正していくことこそが不可欠であると考えるにいたったのです。人間の行動という問題に対してこうした分類学的視点からアプローチしたバロウ博士および共同研究者たちは、「神経症や人間の葛藤のメカニズムにかかわる緊張やストレスの生理学的な反応パターンを分析する」ようになり、約五十年前、クラレンス・シールズとともにひとつの仮説を発表しました。それは、人間が善悪の基準をつくり、自己と他者、また、ある集団と他の集団を独断的に区別するようになったのは、生物的な行動の反応パターンにもとづいているのではなく、系統発生すなわち進化の過程で何かが道を誤ったことが原因である、というものです。そして、人類史をずっとさかのぼっていけば、
その原因、すなわち明らかに逸脱していて秩序の乱れた反応体系を突きとめることができると彼らは考えたのです。
個人にとっての真実は、他のすべての人にとっても同様です。現代人の行動は、理性の誤用によって阻害されています。現代人が抱いている気分や動機は、幼児期(二歳から六歳ごろ)の未分化の前意動物行動パターンが変形されたものにすぎません。人類は発達の初期段階においてこれと同じような前意識状態にあり、それが原始的な、つまり幼児期の人間に見られるような行動様式をとらせていたものと考えられます。「人間の精神過程に見られるこうした普遍的な分割と葛藤「私対あなたといった二分法」は、人間社会の相互関係的な行動にはよくあらわれるものの社会的には意識されていない要素が反映念れたものだと思われる」(『人間の神経症』)。すなわち、人類はまだ成熟していないというわけなのです。このうな研究からバロウ博士は、「ファイロ・アナリシン」「ファイロ・シンセンス」と呼ばれる方法を編み出しました。

ファイロ・アナリシス

ファイワ・アナリシスが精神分析と大きく異なっているのは、精神分析では分析者が初期者に想い
ことを自由に連想してもらうのに対して。ファイロ・アナリシスでは習慣的に明ら/乙イノーンとさせるタうにする点です。さらに、ライフウィン研究所ではファイロ・アナリングの物験者がアナルのものであり、そこでは実験者が装置の調節をして明の変化。制他飯募の動きなどの現象とを測定し、同時に必督の役割をします。
精神分析では被験者は心に浮かんだことを迅速に話すよう求められますが、ファイロ・アナリシスでは「自分自身を呼び戻す(想い起こす)」ようにします「心でもって心を観察する」。こうして被験者のもつ固定されたイメージを繰り返し排除していくのです。
その手順は次のとおりです。まず被験者はリラックスしてまっすぐ座り、目を閉じます。これは、内的なバランスをしっかり保ち、目に意識を集めるためです。次に、両目を閉じたまま正面に均一に広がる黒い幕をイメージし、視線をある一点に定めます(もちろんそれは見えません)。このとき運動感覚としては、通常の視線の動きと同じように感じられます(大脳と目を結ぶこのようなムドラーには、ウンマニー・ムドラー[視線を鼻先に結ぶ]、シャーンバヴィー・ムドラー[後述]、ケーチャリー・ムドラーがあり、ヨガで一般的に用いられますが、それらはすべて視線をある一点に定める行法です)。こうすることで自分の身体の「不確定な生理的プロセスを自覚しつづけられる」ようになるとバロウ博士は述べており、それは本人が主観的にしか認識できないものです。

注意力が散漫状態と集中状態の違いとは?

こうした、大脳から目の固定姿勢を一定時間(最初は二、三秒)保持することで、被験者のもっている習慣的イメージは自動的に排除されます。バロウ博士は「私たちの内側にある、抑圧された社会的な感情や欲求不満から生じてくる心理的・感情的な苦痛や失望感は突然消え失せてしまう」と述べています。
この練習を続ければ、初めのうち目のあたりや頭の中に感じられていた緊張感は、身体全体に感じられる安定した感覚や調和のとれた緊張感に取って代わられていくことでしょう。こうしてロウ博士は、二種類の、神経筋肉〉の緊張系をつねに区別することができたのです。それは、1表面的で二次的な共同緊張系と、2生体全体に関わる深層の緊張系です。バロウ博士は、1社会的に条件づけられたもの、2原始的で条件づけられていないものとみなし、前者を「散漫状態」(Ditention)、後者を「集中状態」(Cotention)と呼んでいます。被験者は何度も散漫な状態に陥り、心は自動的にいつものあれだこれだと考える習慣的イメージに飛びついてしまいます。「集中状態」にもどるには、もう一度全過程を繰り返さなければなりません。このテクニックをじゅうぶんな期間にわたって練習しつづけるなら、習慣的イメージへの関心は次第に消え失せていくことでしょう。
実験中に被験者が「散漫状態」から「集中状態」へ移るとき、被験者の呼吸のカーブと対照群のそれが運動記録器(キモグラフ)によって電気的に記録されました。それによると平均呼吸速度は、「散漫状態」では一分間に十三・二二回であったのに対して、「集中状態」では四・六三回で、この変化は随意的に制御したものではなく緊張状態が変わったときに自動的に起こりました。
また、ジョーン基礎代謝装置によると、一分間に吸い込まれた平均空気量は、「散漫状態」では六・九五リットルであったのに対して、「集中状態」ではわずか四・○八リットルでした。
呼吸数と空気吸い込み量を比較すると、「集中状態」では呼吸数が減ったのに対して、一呼吸ことの「ドタ吸い込み量は「散漫状態」よりも多く(六・九五リットル/一三・二回、四・○五リットル/四・六三回)、「集中状態」での呼吸は「散漫状態」での呼吸より深いことがわかります。
またこの二つの状態での一分間に吸い込まれた空気量は異なっていますが、一分間に吸い込まれた酸素量は、・二リットルとほぼ同じでした。
実験中の眼球運動は、瞳孔間の距離を直接検査・測定しただけでなく、写真でも、また電気的にも記録されました。それによると眼球とまぶたが動く頻度は「集中状態」で著しく減少しています。
脳波計によると、「集中状態」のあいだ、アルファ波の出る時間の割合とその振幅は減少していますが、これは大脳皮質の電位が下がっていることを示すものです。このような客観的な記録の他に、被験者の主観的状態にも注意が向けられました。バロウ博士の言葉を借りると、「へ感情的、象徴的〉な一面、すなわち「私」という分離した人格は部分的なストレスをもたらすが、そのストレスに対する観察が深まっていくにつれて、感情的でも部分的でも散漫でもない、私、という人格の背景に存在する基盤への感覚が培われてくる。それは本来の自然な連続性と結束性の状態にある人間の根源的な生命組織の感覚である。被験者は率直で非感情的な関心によって自らの本来の生命組織を感じはじめる。こうして集中状態、すなわち生体のもつ一般的な緊張状態に対する感覚が生まれてくるのである」。

ヨガの瞑想と現代科学

ヨガも人格を統合する過程においてこのような系統的なアプローチをとります。古代のヨガ行者の瞑想行法や主張は、バロウ博士らのものと非常によく似ています。たとえば、「修行者はどのよ)な瞑想を行じるときも、ある特別な方法で凝視することが必要である」という点です。中でもシャーンバヴィー・ムドラーは一般的な行法で、普通の視線と同じように視線を外界の遠くの一点に定めま
パタンジャリがアーサナについて主張していたことが、バロウ博士が何年もの研究の末に主張したこととまったく一致するのは特筆すべきことです。それは、修行していくことによって、分離した。自分、という感覚および、その結果生じる自分、対他者」という二分法が消え、それにかわって、「自然な連続性とまとまりをもった自分自身の生来の生命組織」を感じはじめるということです。「偏見のない西洋の科学者であるバロウ博士の研究を引用しながら、瞑想の科学的な基礎を示し、リラックスした瞑想をいかに行なうべきか述べてきましたが、瞑想中、「集中」しようとすると、リラックスするどころかかえって緊張を高めてしまう場合がしばしばあります。瞑想の手順をまちがえて失敗する人もいます。しかし順序通り正しく行なうなら「無辺なものとの合一」や「大洋/大湖の瞑想」や「プラーナ(生気)への精神集中」といった瞑想は、リラックスした瞑想状態をもたらしてくれるものなのです。
私たちの研究所の実験でも、瞑想状態における呼吸の速度、深さ、代謝機能については、ハロウ付の実験と類似したデータが得られています。しかし、瞑想の過程はバロウ博士が示したお題よ深く、対立要素の排除もより徹底していたと被験者は報告しています。瞑想がうまくイプ。
被験者は報告しています。瞑想がうまく行なわれたとき、バロウ博士の実験のときのようにアルファ波の出現率の減少が見られたばかりでなく、その振幅も非常に小さくなって、実際アルファ波ははっきり「平ら」になるほどでした。アルファ波のリズムは、普通に見られる後頭部や頭頂部から脳全体にまで広がり、それが「平ら」になる傾向も一般的に見られたのです。また、非常に集中しているために、他のことは忘れられており、針で突ついたりして痛みを与えても脳波形の記録には影響を与えませんでした。普通、刺激があると生体は無関心でいられなくなり、脳波計はその刺激による影響を示します。深い瞑想状態において脳波計がまったく反応しないという事実が示しているのは、精神生理学的メカニズム全体が非常にリラックスした形で瞑想に集中していると、他からの刺激によって喚起されることがないということです。
内外からの刺激を完全に「遮断」できるような高い状態を誰もが体験できるとはかぎりません。しかし、ここで述べてきたような方法で一定の期間、規則的に瞑想を行なうなら、現代の多忙な生活がもたらす異常な緊張を克服するのに大いに役立つことでしょう。