ヨガの根本にある「誓戒」という精神性

正しい態度を培っていくうえでヨガは、「禁戒」「勧戒」と呼ばれる自己訓練のルールを自守ることに大いに重点を置いています。禁戒は社会生活における行動を訓練するため、勧戒は習慣や態度を培うためのきまりです。

禁戒と勧戒はあわせて「誓戒」と呼ばれます。このサンスクリット語は、「ふるまう・機能する」という意味の語根vrtに主格の接尾辞aがついた単語で、自覚的に身につけた習慣や態度を意味します。

誓戒の目的は、修行者が徐々に離欲と識別力を培えるよう助けることです。この考え方の背景にあるのは、感情にとらわれていないとき、大脳皮質はふだんは自律的に機能している要素(
それでも一定範囲は意志によってコントロールできますが)の大部分をコントロールできるということです。

自律神経もまた一定の範囲内では意志によってコントロールできるのです。合理的な確信に裏付けられた体系的な精神的アプローチをとることによって、自律神経系を鍛えることが可能になります。

つまり修行が進んでくると、感覚衝動がどんなに強くても、大脳皮質が最初に関与することなしには反応が起きないようになるのです。この中には新しいことは何もありません。事実、ヒトはこの意識的なコントロールのプロセスによってのみ「人間」になりえました。

私たちが「文明」とか「文化」と呼ぶものは、このプロセスの産物です。動物はたいてい衝動的に行動し、その行動は、恐れ、愛、怒りなどいくつかの異なる感情的な衝動によってのみコントロールされますが、人間(とおそらく数種の高等動物)は想像力や判断力を働かせることができます。そして人間は代々このプロセスを通して自身を訓練し、動物的な性質をかなり克服してきたのです。

人間の本能と理性

しかし、平均的な現代人の行為を分析すると、いまだに衝動的な行為から完全には解放されていません。私生活、社会生活にかかわらず人間の活動の七五パーセント以上が、しばしば「理性」の下に隠されている生来のコントロールされていない衝動によって支配されています。

この衝動パターンには建設的要素と破壊的要素(現代心理学では肯定的要素と否定的要素という)があります。人間の幸不幸は、この衝動をうまくコントロールできるかどうかにかかっています。

今日の世界における戦争、衝突、闘争、内紛といった多くの悲劇は、人間が長い年月をかけてこれらの衝動を懸命にコントロールしていかなければならないことを示しています。ジグムント・フロイト(1856~1939 精神分析学の創始者)の言葉を使えば、心理療法の主要な目的は、自我の力を強め、本能的エネルギーの源泉を弱めることです。

すなわち理性ある意識の領域を拡大させることです。知性によってただちに内的なあり方を克服することはできないかもしれませんが、根気よくやれば必ずや報われるものです。

ヨガではこのことを念想といい、「何度も何度も意識的に心に引き戻す」ことだと説明しています。つまり根気よく心を訓練することです。フロイトとは、このような試みに関しては意見が一致しているようです。

フロイトは次のように述べています。「私たちは、人間の知性は本能に比べて弱いものだと主張できるし、またそう主張するのは正しいだろう。しかし、それにもかかわらず、この弱さには何か独特のものがある。知性の声は低いけれど、しかしそれは聴きとどけられるまでは休止しない。たえまなく繰り返される挫折の後で、結局、それは成功する。これは私たちが人類の未来に対して楽観的でいられる数少ない点のひとつである。知性が優位に立つ日はまだはるかに遠いが、しかし、無限に遠いというわけではない」。

ここでとくにフロイトの名前をもちだしたのは、大変多くの人々が本能的衝動に対するフロイトの見解を誤解しているからです。人々は、「抑制」はすべて「抑圧」だとみなし、あらゆる教育的なプロセスには、ある一定の衝動のコントロールや抑制が必要であることを忘れています。

抑圧が起こり、その結果精神生理的な混乱が生じるのは、本能が自我を超え、潜在意略的ないし無意識的な存在によって支配されたときだけです。しかし自我そのものが忍耐づよければ、それは心を教育することが可能です。自我は、現実原則にしたがって全体をコントロールする働きをもつからです。

フロイトが言うところの本能と自我の格闘は、ヨガでは「遮断」と呼ばれ、直訳すると「途中でさえぎられた活動」という意味です。これはすなわち、二つの強い感情的衝動のあいだに葛藤が生じた結果、活動が途中でさえぎられている状態をさしています。

平均的人間の日常生活においては、ものごとはこのようにして「制御」されています。つまり、非常に優勢なひとつの感情のために、それほど強い「衝動」をもたない残りの感情が抑えつけられているわけです(これはあるひとつの「煩悩」が気ままにふるまっている状態で、ヨガでは「ウダーラ」と呼ばれます)。

葛藤(遮断)は、互いに正反対の二つの感情的衝動が同じ強さで生じる場合にのみ起こります。このような葛藤は心身の緊張のあらわれである「身体の震え」を引き起こし、この緊張は一個体として調和のとれた心身の活動を抑制します。ヨガによれば、こうした心身の緊張が続くと抵抗力が低下し、さまざまな身体機能の不調和のおもな原因になります。この状態を予防し回復するためにヨガは、一方に心理的方法て禁戒と勧戒を、もう一方に生理的方法としてアーサナと調気法を処方しているのです。

ヨガの禁戒・勧戒

禁戒と勧戒はヨーガにおける第一の誓戒であり、心身を浄化し、調えるクリヤー・ヨーガでもあります。クリヤー・ヨーガの目的は、強い外的および内的衝動があったときでも、精神生理的なバランスを可能なかぎり保てるようにすることにあります。すでに述べたように、禁戒は社会的行動に関する規則、勧戒は個人的(精神的、生理的)衛生に関する規則です。禁戒としてパタンジャリは次の五つをあげています。

1非暴力-他人や生物を憎んだり傷つけたりしないこと、また、そうした思いをもたないこと。
2正直-いつわりなく真実を語ること。
3不盗-盗みをしないこと、またそうした思いをもたないこと。
4禁欲-性的行為の自制。
5不貧-自分のものを貯め込んだり、他人の富や所有物をむやみに欲しがらないこと。

また勧戒としては以下の五つをあげています。

1清浄-心身の清浄さを保つ。
2満足-あらゆることに満足して、不平をもたないこと。
3苦行-修行をしていくこと(健康を損なわないようにして)。
4読誦-聖典の学習、自己実現に役立つ精神的活動。
5最高神への信仰-大いなる存在への信仰をもつこと。

では、修行者がこれらの「徳」すなわち誓戒を修養していくうえで、ヨガはどのように役立つのでしょう。禁戒と勧戒は、たんに盲目的な一時の感情に駆られてではなく、じゅうぶん考慮し確信したうえで受け入れられなければなりません。その際、だれか指導者がついて修行者を助けることになっています。

恐れからの解放

生存競争において人間は二つの相反する傾向のあいだで葛藤します。ひとつは動物的状態から脱出しようとする進歩的傾向で、もうひとつはそれを元に引きもどそうとする退行的傾向です。個人の歴史も、そして人類の歴史も、このはてしのない葛藤の歴史以外の何ものでもありません。

しかしヒトは「人間」となり、この「人間的」要素を維持してきました。それはひとえに、進歩的傾向がつねに退行的傾向より勝っていたからです。にもかかわらず、精神病の蔓延や、人類の歴史において定期的に起きる戦争や内紛という事態は、人間がいまだに激しい葛藤に揺れ動いていることをあらわしています。

人間は何世代も前に脱したかと思えた状態に、ときどき退行してしまうことがあるのです。エーリッヒ・フロム(1900~1980、ドイツ生まれの精神分析学者、社会学者)は次のように述べています。

「人間の生活は、退行するか進歩するか、つまり動物的状態にもどるか人間的状態になるか、という不可避の選択によって決定される。退行するのはいかなる場合もつらいことであり、必ずや苦しみや精神の病をもたらし、生理的または精神的な死(狂気)を招くことになる。しかし、前進することもまた恐ろしく、つらいものである。恐れや疑いはほんのわずかな部分を占めるにすぎないとわかる地点にたどりつくまでは」。

ヨガの目的とはまさにこの「恐れからの解放」(アバヤ)であり、それこそは真に発達した人間のただひとつの特徴なのです。『バガヴァッド・ギーター』では、恐れのない状態は「神の財産」の第一かつ最上の資質であるとみなされています。ちなみに非暴力は、神の財産のリストでは十番目に置かれています。

エーリッヒ・フロムはその「人間主義的精神分析」理論で、いかに人間が「動物を特徴づけている、自然との基本的一体性から引き離された」と感じているかを示しています。