ヨガ本来の精神性について

こちらでは、古くからあるヨガの教えの中でとりわけ精神的な論について述べています。ヨガがカジュアルでなものとして普及している現代においては、あまり取り上げられない話ですが、参考程度に見て頂ければと思います。

ヨガが目指すのは心の安定

すべてのヨガは心の安定を得ることをめざしています。心の安定が得られたときに初めて、真の「自己」に出会います。感情的であるにせよないにせよ、とりとめもない思いでいっぱいの心は、中国人的な性質をもつ「大いなる存在」の意味をとらえることはできません。

ヨガでは、心と物質はともに同一のエネルギーのあらわれにすぎないと考えられています。

私たちは心と物質はまったく異なったものだと理解していますが、実はひとつの永遠なる存在の二つの面にすぎないのです。私たちが心と物質を別物と「認識」するのは、大昔から蓄積された煩悩によって心がゆがめられているためです。

単層の中で根本的なものは「無明」といいます。無明が取り除かれないと、この現象界の法則である天則を理解することはできません。偉大な哲学者であるスピノザ(十七世紀オランダのユダヤ系哲学者)は、「心の力や自然の秩序を理解すればするほど、いっそう容易に本質的でないものごとから解放される」と述べていますが、ヨガでも同じことが言われています。

ヨガの流派

ヨガのいくつかの流派は「残存印象(潜在記憶)の除去」によって心の安定を得ようとします。真理を哲学的に追究するジュニャーナ・ヨガ、神への信愛・帰依に専心するバクティ・ヨガ、結果や報酬を考えることなく社会的義務をはたすカルマ・ヨガ、そして瞑想によって真理を悟ろうとするディヤーナ・ヨガがこの部類に入ります。

また、プラーナ(生気)の影響を制御することによって心の安定を得ようとする流派もあります。文を唱えるマントラ・ヨガ、身体の生理的操作によって真理を追究するハタ・ヨガ、心霊的な風想により心の働きを鎮めるラヤ・ヨガ、八部門の行法を介して心の働きを制御し止滅させるラージャ・ヨガがこの部類に入ります。

これらはいずれも、誰にでもそなわっている潜在能力、クンダリニーを覚醒させるので、クンダリニー・ヨガまたはシャクティ・ヨガとも呼ばれ、伝統的にマハー・ヨガ(偉大なヨガ)と総称されます。もちろん、これらのヨガにははっきりとした区別があるわけではありません。ヨガの達人は一般にさまざまなヨガを組み合わせて実践します。

パタンジャリのラージャ・ヨガも、これらの行法を公平に正しく組み合わせて行なうことを初めています。ラージャ・ヨガは、1禁戒、2勧戒、3アーサナ、4調気法、5制感、6精神集中、7瞑想、8三味の八つの行法から成り立っています。

ラージャ・ヨガは心の安定という問題に対して精神生理学的に取り組みます。パタンジャリによると、煩悩は純然たる心理的作用でもなく、純然たる生理的作用でもありません。煩悩とは精神生理的な作用であって、煩悩と取り組む最良の方法は、少なくとも煩悩がある程度コントロールされるまで、心身両面の訓練を行なうことなのです。

こうした考えにもとづいてパタンジャリは、最初の実践法として、一方で禁戒、勧戒他方でアーサナ、調気法を提唱しています。このようなクリヤー・ヨガによって、心にありつづけた煩悩がいったん弱められると、次に瞑想のヨガであるディヤーナ・ヨガを行なったとき、煩悩はいとも容易に除去されるのです。

ペタンジャリは、煩悩には無明(大いなる存在の性質に関しての無知)、自我意識、貪愛、憎悪、生命欲の五つがある、と説明しています。これらの煩悩で最初に取り組まなければならないのは、無明や自我意識ではなく、快楽にとらわれた心情である「貪愛」と、苦にとらわれた心情である「憎悪」です。愛と憎悪は、成長しきった木が倒れる前に切り落とさなければならないたくさんの枝のようなものなのです。

貪愛と憎悪

貪愛と憎悪を取り除く最良の方法は、両者のあいだに「中道」を見いだすこと、つまり執着しない心を培うことです。「離欲」は一般に「嫌悪」と訳されますが、そうではなく、「冷静」ないし「無関心」という意味にとらえなければなりません。

愛と憎悪は人間のほうから外部のものごとに向けられるだけでなく、自分自身にも向けられるものだとヨガでは考えます。さもなければ自殺がなぜ増えているのか説明できません。さらに、貪愛と憎悪はたがいに密接な関係をもっており、一方の存在はもう一方の存在を前提としています。

たとえば、あるものを気に入り無性に欲しいと思うとき、その欲望を拒み、獲得の障害となるものをみな憎むことがあります。それだけでなく、貪愛と憎悪はまったく同一の人物やものごとに対して交互に働きかけてきます。たとえば、ある人を愛したり憎んだり、というようにです。

私たちは、この二つの感情があまり激しくないときだけこの両方の感情を意識できます。しかし、感情がかなり激しいときは、顕著な感情だけを意識し、抑圧されて休止状態にあるもう一方の感情を意識しません。

後者の感情はそれ自体は隠れており、異なった外観を装っているかもしれません。それはめったにはっきりとはあらわれないのです。そしてこういったことは自分自身に対する態度にもあてはまります。

ヨガではこの二面的な感情状態のことを、煩悩が「遮断されている状態」と呼びます。さらに、これらの感情は理性や知性によって、間接的にある程度はコントロールされますが、それがいつも理性的なプロセスを経るとはかぎりません。